元禄十四年(1701)
県道松阪久居線を行き雲出川の支流中村川を北に渡ったところに忘れ井の宮古の里が拡がっている 私が勤め始めた頃は小川橋が現在より少し下流にあって その橋を渡って旧初瀬街道が宮古の在所を縦断して伸びていた 街道から集落の中に少し入った場所に石灯籠などの石造物が集められた場所があって それらに混じって単制石幢が立っている
全高83cm石材は砂岩を使っている
元禄十四巳 九月廿一日
□善提證 施主源太郎と彫られている
石幢は伊勢を中心に17世紀に流行のピークを迎えている この元禄十四年(1701)銘のものは流行の終焉にあたる時期で 近世においてはそれ以降 伊勢法住院に宝永二年(1705)銘の重制石幢があるらしいがほかにはあまり知られていない
宮古はいにしえには郡家(ぐうけ)が置かれたところで 書紀などではそれを(こほりのみやけ)と読んでいる そこから「みやこ」となった説と 群家に置かれた正倉(みやけ)から転じたという説があるようだ
街道から少し離れた集落の南西隅あたりには忘れ井が残されている
別れゆく 都の方の恋しきに いざ結びみむ忘井の水
斎王群行に随行した官女甲斐の詠んだ歌である
若い頃にはその看板の前を毎日通っていたのだが きょう初めて訪ねてみた
参考書籍
「嬉野史-文化財民俗編」嬉野町 P438
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